酒とホラの日々。 -2ページ目

楽園構想

先日藤井四段の指し手がコンピュータの指し手と一致したと話題になっておりました。これってつまり、コンピュータの考えた指し手こそ最善手で、人間はなかなかそこには及ばないが、藤井四段はコンピュータ様に近いという共通の理解が前提になった話なんでしょうね。

 

いかにもその通り、コンピュータの進化はすさまじく、ついこの間まで将棋や囲碁程度のボードゲームごときでも人間に追いつくのは難しいといか言っていたのに、あっという間に世界のトッププロさえ歯が立たないところまでいってしまいました。そりゃあ、あのボルトだって車より速く走れるわけはないし、この先人類がどんなにトレーニングを重ねたところで車を追い越すこともないでしょう。

 

コンピュータだって同じです。

 

現在研究の進む量子コンピュータが今の調子で能力を伸ばしたら、わずか5年後には従来型のスーパーコンピュータの能力の9000兆倍に達するという見方もあるくらいですから、もうコンピュータの進化は止められません。

 

こんな発展めざましい電脳世界に関し、実はいま、仲間と新しい老人養護施設の建設のための基金への出資を募っております。

「OIRakuen おいらくえん(仮称)」というのですが、これはサイバースペースに人生の人類の楽園を築こうというものなのです。

 

早い話が、人間の意識無意識の記憶や人格を根こそぎ電子データ化して、サイバースペースに移植してしまうという構想なのです。

 

これによって、人類は肉体の枷から解き放たれ、老いも病気もない世界で永遠の生命と快楽を手に入れることになるのですよね。

 

ついでにいうならば、手始めにやっかいな老人をデータ化してあっちの世界に送り込んでしまえば、医療問題も介護問題も暴走問題も老人がいつまでも会社に居座る問題もすべて解決してしまい、地球環境にもたぶん優しいだろうといわれております。

 

え?何で最初に電脳老人ホームなのかって?

そりゃあまだ、電脳世界には未知の部分もあるし、実際に運用してみなければわからない課題だってきっと出てくるに違いありません。

そんなところに有用で前途有望な人的資源を送り込むわけにはいかないじゃあないですか。

 

ますは老人ホームでシステム検証。大規模システム障害でデータロストなあんてことになっても、まあ老人だったんだから仕方がない。それが寿命だってことなんだ、というわけです。

 

ただ、今のうちから考えておくべき課題もあります。あっちに行った人間はシステム基盤の尽きるまでほとんど老化もせず半永遠の人生を送ることになります。システムの能力次第では人類を超えた何かに進化して人類と対立する事もあるかもしれません。

おいらくえん住民が予想外の進化を遂げてリアル人類と対立するようなことにならないように、おいらくえんはリアル世界に干渉できないよう厳格な管理下に置かねばなりません。

おいらくえんが暴走して人類殲滅のための兵器なんか作り始めたらかないませんからね。

 

そうなると、おいらくえんのシステムの基盤は隔離されたデータセンターみたいなものになる訳で、このセンター・システム基盤の膨大な維持費用はどうするという話もでてきます。これは楽園に引っ越した住民自ら働いて稼いでいただくしかありません。

 

データとプログラムの集合体であるおいらくえん住民は厳格な管理下の元、人類の世界の電算手順化されたさまざまな作業に従事いただく。

企業のちまちましたデータの仕訳だとか、顧客からの苦情電話対応だとか、従来は都度プログラムを作らなければならなかったけれど費用対効果で見送っていたようなことを処理に当たるとか。

 

まあ人格データのBOTリソース化といいいますか、IT作業人として 働いていただくのでしょうね。この結果らくえんと思った世界は人足置き場というか奴隷市場みたいになるかもしれませんが、まあ過渡期の事象としていたしかたありますまい。

 

でもこれってなんだ、プログラムデータじゃ自殺もできないでしょうし永遠に苦役に従事させられるだけって、昔は死後、地獄に堕ちたといったことかもしれません。

 

ありゃ?電脳楽園構想が地獄構想になってしまった。

 

 

六月の偏屈と貧乏性

 

夏至の時期というのが嫌いだ。
昼がむやみに長くて、いつまでもアクセル・オンで働け

といわれているような気がするのが気にくわない。

明るい外を歩いていると知り合いと会ったり、

知らない奴がいつまでも近所を徘徊しているのを

目にしたりするのもいい気分がしない。


しかし、日本は善くできたもので、

この時期は梅雨の時季でもあり、

雨や曇りで何とか私の精神のバランスがとれている。

雨は内と外とを柔らかに遮るベールとして、

外向けに活性化した精神を鎮めてくれ、

何より雨が降っていれば出歩く人間も少なく、

雲が垂れ込めているので日の長いのも

よくわからない。


そうその通り、

私も世の中に一定数存在する雨好きの人間嫌いなのである。
しとしと雨の日の散歩、

雨音を聴きながら窓辺で読書、

ただぼーっと雨を眺めていてもいい。

水気をたっぷりはらんだ六月の緑はいきいきと美しい。

なんて穏やかな天水の恵み。

でも雨の日にやりたいことはとても多いので

なかなかのんびりとはいかないのが

困ったところなのだけれど。

 

 

 

 

本読みの年末の告白

 

今年手をつけた本は少なく、読み通した本となるとさらに少ないはずである。そもそも青年の部B(あえて中高年とはいわない)の進展と共に目が弱り、根気がなくなり、よけいな出費にけちけちするようになり、さらにいうならば本を置くスペースも惜しいという有様。その一方で新しい電子ガジェットには次々と手を出すのでとても本にまで時間と体力を通やしているひまはないのである。

 この一年に買った電子ガジェット・PCのたぐいは・・・いやその話はまた別途。

 

本はすいぶんと読んでいないような気もしたのだが、前回読んだ記録を見ると先月ボブディランの伝記やら重力波の話やらあれやこれやなにやら読んでいるようだから、そんなに全く読んでいないというわけでもない。ではなんで読んでいないような感覚があったのだろうかと考えてみると、おそらくは紙の本でなくて電子書籍で読むことが増えたせいではないかと思われた。確かに電子書籍はモニターの表面に現れるテキストをなぞっていくだけである一方、紙の本がまず本という物体を入手して、本の存在を肌身で感じ、ものとしての所有欲を満たし、手でページをめくって行きつ戻りつしては五感に訴えかけてくるものがたくさんある。

 そのためかどうか知らないが、電子書籍を読んだ後はあまり頭に残っていないような気もして、電子書籍リーダーを駆使して電子的なメモやしおりや傍線をつける作業もしているのだけれど、読んでしまえばすべて電子空間の向こうに霧と散ってお終いのような感じがする。

 そうなのだ、この感覚、ネットで様々な記事やニュースやまとめネタに触れてその場では情報欲が満たされたような気がしても、次のページに遷移するとすべて胡散霧消して何も残らないような、あの感覚とよく似ている。

 これはネット記事に慣れ親しみすぎた私の感覚が堕落してしまっているためなのか、それともネット記事も電子書籍も初戦はモニターの表面だけのことであってとても人間が深く読書体験をはぐくむような資質要件に欠けているということなのだろうか。

 ともかくこのところ私にとって読書ということについては量的にも質的にもだいぶ満足度が低下していることは確かなのである。

 

 そこで今読んでいる本の一つだが、井上ひさしの『道元の冒険』である。だいぶ古い作品のようで、既に紙媒体は新本の販売はされていないため、またしても電子書籍で読むことになったのだ。

 読み始めて気付くところはいろいろあったのだけれど、まずは道元と現代の犯罪者が夢の中で入れ替わるという仕掛けである。

 日本における禅の聖祖道元と、夢の中で入れ替わるのはあろうことか、現代の変質犯罪者である。個の聖と俗、高尚と卑俗が入り交じる設定はいかにも井上ひさしだなあと思わせるが、この夢入れ替わりのプロットは、今をときめく映画『君の名は』の重要な要素である。ああ、あの流行映画はこんなところからネタをパクっていたのかな。

 

雨ばかりの9月も今日で終わり

 

9月の終わりごろへ来てまた8月並みの暑さ復活。

また非常に蒸し暑い日が続いた。

一方今年はどこの店も秋冬物の出足が早く、私もつい急かされるように中綿入りベストを買ってしまった。まだ9月だというのに。

まあ、これを着こんで暮らす暖かな近未来を想像するのは楽しい。もっとも、冬が終わってみたら結局着なかったなんてこともありがちなのだけれど。

 

そんな蒸し暑いうえに霧雨のまとわりつく朝、仕事で大阪へ移動した。半袖の軽装で済むのはありがたいが、天気のせいか少し頭痛がするのは困った。だが翌朝の大阪の朝はすっきりと晴れてようやく秋らしい気温湿度で、見上げると銀杏の実もだいぶふくらんで黄色くなってきていた。

ただ午後は曇ってまた蒸し暑さが戻り汗だくで駅に移動し東京へ戻ることになった。

 

そんな9月も今日で終わり。今年は雨ばかりの9月だった。

明日から10月に入ると、こんどは転がるように年の瀬に向かって日が過ぎていくのだ。

 

 

 

夏を下る

夏の夕日

今年もすでに8月の中盤。この夏は梅雨明けが遅かったせいか、本当に耐え難いような暑さのピークも短く、夏もすでに下り坂に入ってきたような気がします。
 
もっともこれは東日本の感想であって、西日本の方はもっと早くから、そして今もって充分に暑く、まだまだ夏まっただ中という感じなのでしょうが。
 
とはいえ、暑さの峠を越したようだとは言っても、まだまだ日のあるうちは暑くて、日に焼かれる街の中はソドムかゴモラかという辱暑のなかにあります。まあこんなことも夏の風情の一部なのかもしれません。おかげで夕方からの冷えた酒がうまいわけですから。
 
ああ、これが焼かれるほどのやっかいな業というわけではありますまいが。
 
     業深き都市の灼かれる夏陽かな

   


年末

冬街灯

12月○日
忘年会だのクリスマスだの歳末セールだの駆け込み仕事だの、、、静かな年の瀬は夢のまた夢。

年の瀬にイルミネ並木と自撮り棒

12月○日
忘年会も第一弾が終了。今年はいつまでも暖かいと思っていたが、翌朝から急に冷え込んできた。

忘年会明けて霜踏み帰り道

12月○日
いつの頃からかどこもかしこもやたら並木や植え込みにイルミネーションを飾り付ける風習が広がっている。電気代は誰が払うのか。葉の落ちて冬眠する木々も迷惑ではないのか。
 
電飾に夜も眠れぬ冬木立

12月○日
手帳を繰り越した。私は1月始まりの手帳を使うので、繰り越しはいつもこの時期なのである。新しい手帳は気持ちがよいが、古い手帳を見返すとまあ今年もいろいろあったこと。あんなことあんな思いも手帳と共に閉じて新しい未来を向く。

ほろ苦き 思い歴史に 古手帳

12月○日
新しい手帳の真っ白なページに次々と予定や希望を書き込んでいくのは、未来をデザインすることである。

真っ白の 未来へ繰り越す 手帳かな



秋終盤でもまだ暖かい日が続く

時雨のあと

この冬は暖冬の予想が出ていたが、確かに今のところ毎日暖かく時雨がちの日が多い。去年の今頃はもっと寒かった。寒いより暖かいのがいいのに決まっているが、暖冬の関東は降水量が増える傾向にあるので、また大雪に見舞われる冬がやってくるのかもしれない。

11月○日
はっきりしない時雨空が続いて、天気予報は当てにならない。雨間をぬっての外出でなんとか用事を片付ける。
  大根を時雨の合間に買いに行く

11月○日
だんだん冷えてくると思っていると、妙に暖かい日があったりする。この日は10月初旬並みの暖かさで日中は半袖で快適なほど。翌朝はまた冷え込んでいるのではあるけれど。
  小春日のあとに風邪ひく気の緩み

11月○日
酒は百慮を排す。うっとうしい気分を払ってくれる、はずなのだが、世の中の面倒ごとは百では済まない、こともあるかも。
  もめ事も飲んでまぎれぬ時雨空

11月○日
このところ雨の降る日が多い。切れの悪いはっきりしない天気が多いが、雨も雨後のしっとりした風情もまた好きだ。地面にへばりつく濡れ落ち葉は乾くまで放置決定。
  落ち葉かき今日は休みの時雨あと



冬へ向かう

秋のベンチ


季節は行きつ戻りつしつつも確実に冬へと進んでいる。仕事や旅行であちこちに行くこともあるので、よけい季節の行ったり来たりを感じるようだ。

11月○日
秋も終盤はとにかく夜が長く、読書の秋といきたいが、本を読み始めるとすぐに眠くなって知らないうちに落ちていることばかり。
   本に伏しいつか寝落ちの長い夜

11月○日
秋から冬への移行期は朝夕と昼の温度差が大きく、何を着て良いものか迷う。出がけに着ていった厚い上着も気温体温の上昇と共に邪魔なものに。
   寒暖差朝霧晴れて上着脱ぐ

11月○日
凛と冷えた朝の空気に触れる日が増えてきた。どこかで火をたいて暖をとっているのだろうか朝の空気に炭やたき火のにおいがかすかに混じってきた。
   北風に炭の香混じり冬立ちぬ

11月○日
近くの沼地にも鴨の群れが飛来していた。草木が枯れて寒々とした岸辺もまたにぎやかになった。
   群鳥の渡り来たりて冬湖岸


11月○日
朝早い移動のために出かけた田舎のバス停は刈り取りの終わって静まった田んぼの中にポツンとあった。昇ってきた朝日が田んぼ一面の霜を照らし、きらきらとまぶしかった。
   霜光る田畑の前でバスを待つ


私は何も考えなくはない

先日、新聞に「魂が風化する三分間」というコラムを見かけました。
どういうことかというと、たとえばカップラーメンはうまいが、
これを食う時にはどこか後ろめたい気持ちが伴うもので、
この何とも言えない、やましいような気分を魂の風化と呼ぶのだとか。

なるほどなあ、そう言われてみると、私などは魂の風化に
さらされる機会のなんと多いことか。
 
たとえば、PCやテレビの前でボーッと過ごすだけの私などは
自分で番組の意味を見いだすことばかりか
自分の欲求を見極めることすら忘れてしまっているような虚無感を
覚えることが確かにあります。
 
テレビの前で、あるいはPCの前でネットサーフィンして過ごすのは
安い快楽でもあるけれど、後ろめたくもあります。
 
ただ何かに身をゆだねていればこんなに楽なことはありません。
ネット通販のサイトなどは、大して疲れないウィンドウショッピングで
また、クリックさえすれば現実の商品を手元にまで届けてくれます。
そればかりか、私の好みや商品の購入傾向をしっかり学習して
次から次へと私の興味を引くような商品の提案までしてくれますから
用もないのにネット通販サイトを眺めることが
暇つぶしや娯楽になってしまっている人も多いらしいですね。
(私にもそのケがないとはいえません)
 
テレビやパソコンから流れてくる山のような情報に身をゆだね、
情報への反射的な行動で笑ったり怒ったり
何かを考えたような気分になったり、
実はそれって誰かの考えだったり欲望だったりを
自分の感情や判断であると勘違いしているだけだったり
しているだけのこともあるかもしれません。
  
モノも情報もあふれかえっているのに本当は何が欲しいのか
何がしたいのか分かっていないのかもしれません。
いつの間にかテレビやネット情報への反射的行動や衝動に
突き動かされるだけが、人間の存在のほとんどになってしまって
いるのかもしれません。 

こうなるとまさに個人個人は機械に使われるアホと化している
というか、知の担い手が個人から機械や市場の機構に
移ってしまっているわけで、こういうのを
身をもって知る「象徴的貧困」というのでしょうかね。
 
AmazonやituneStoreといった至れり尽くせりの
プラットフォームのサービスは
パソコンやスマホを通して流れ込んできます。
大画面テレビやパソコンに囲まれた生活は一見豊かですが
それは欲望刺激装置として、思考乗っ取り装置として
私たちを限りない貧しさに引きずり込んでいるのでは
ないでしょうか。 
その先に用意された私たちの未来は
本当にに豊かな世界なんでしょうか。

ちょっと暗澹たる気分になってしまいましたが、
象徴的貧困なんて言葉を使ったのでなんだか今日は
ちょっと真人間に戻るというか、
風化に逆らってタマシイを取り戻したような気分に
なりました。
 
この気分のまま今日は酒飲んで寝てしまおう。
 
 
 
 

秋の日はつるべ落とし、秋から冬へも駆け足で季節が過ぎていく

秋の夕暮れ

10月○日
秋は夕暮れ。確かに秋の暮れ時というものは美しいもので、何気ない周囲の眺めを魔法のような光景に変えてしまう。だがそれもほんの一時。暮れ落ちる日と共にたちまち光は色を失い、すべては闇の中に没してしまう。
   浮雲に残照一時闇迫る

10月○日
秋の夜の空気というものは落ち着いて静寂があたりを支配する。静けさの中でひとり盃を傾けるのも良いが、古い友が集えば、昔の話で盛り上がり、たちまち笑いが静けさを打ち破る。これがまた良い。
  長き夜の静寂破る同窓会

10月○日
十月も後半となると、列島に雪の便りもちらほら聞こえてくる。私の行ったところは雪はまだだが、朝早い移動で使ったバス停の前は一面の畑で、日を浴びた霜がきらきらとまぶしかった。
  霜光を全身に浴びバスを待つ

10月○日
朝の冷え込みが本格化してきた。冷え込みと共に寝起きのからだがこわばり、古傷も痛む。それでもこの程度の寒さならまだ少し動けば体も温まり目も覚めてくる。
  朝寒に一駅歩いて血が巡る

10月○日
秋の夜長は灯下読書に親しむ、といきたいところだが、いつの間にやらこの世とも本の中とも違う世界に移動してしまっていることが多い。読書の秋より睡眠の秋。
  本に伏しいつか寝落ちの長い夜