酒とホラの日々。 -83ページ目
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名古屋地球博?

なんかなあ、あれって名古屋の名古野人のための大きい縁日なんでしょう?

春雨の神保町散歩

昨日むせぶような春の雨の中、久々の神保町詣で。
定例巡回路の中の本屋「書肆アクセス」で『古本屋の女房』・田中栞 / 平凡社の著者サイン入り、書肆アクセスオリジナル蔵書票のおまけ付きが目にとまったので購入。
おまけにつられて買ったのだけど、私はもっぱら本は買う側なので、本屋経営側の目というのが何とも新鮮でした。
その上この著者、挿し絵も自前とはたいしたもんです。

しかし、著者の度を越した本好きは大変なことながら、古本の販売、買い取り、整理、せどり(他の古書店から自店で売れそうな本を買い取ってくること)に奔走する日々は何やら大変なことばかりで、私も本好きではあるが優雅な読書ライフを送るには、本に対する節度も大切だと自戒させることでは私にとって意味があったかも。


病気トリップ 雪桜のち、みぞれ

風邪を引いたのか、昨日から全身の筋肉や間接ががひりひりと痛みます。
会社から帰る電車の中、本を広げたまま寝入ってしまいました。
帰宅後疲れて仕方なく早く寝たのですが眠りが浅く、
普段見ない夢をいろいろ見ました。
昔見た夢を思い出している夢だったり、とりとめがありません。
ひた降る雪の中、春の淡雪の中に倒れて
水気をたっぷり含んだ雪に包まれた花のつぼみを見上げていると思ったら
寒くて目が覚めました。体が痛いためか寝苦しさにふとんをはいでいたようです。
寝そびれてしまったのでPCに電源をいれて窓の外を見ると、現実世界でも
三月の雪が降っていました。

『人体常在菌のはなし』と花粉症

実は、、、、
私は十数年来の重度の花粉症持ちであるとともに、
過糞症である。
花粉症は主に上から、涙、くしゃみ、はなみずに見舞われるものだが
過糞症はつまりその、下からよく出るのである。
三度飯を食えば大抵日に三度のお出ましとなる。
世の中にはずいぶん便秘の薬が出回っているようだが
糞詰まりは私には未知の世界である。
でも決して下痢してるわけではない。いつも出るのは色ツヤ固さとも
申し分のない黄金の造出物である。毎回量も多い。

「人体常在菌のはなし」 青木 皐 / 集英社新書によれば、
食べたものを消化し、吸収し、また、腸内で必要な栄養素を作り出すには
一人に百兆もるという常在菌の働きがぜひとも必要で、
健康はいかにこの常在菌のバランスをとるかということであり、
除菌・殺菌で過度の清潔指向の現代社会には問題が多いらしい。
常在菌にはよく知られた善玉菌・悪玉菌のほか、状況次第で
良くも悪くもどっちにでも転ぶ「日和見菌」が多数を占めているため
消毒一辺倒で菌の間のバランスが崩れてしまうためである。
従って菌との共生による免疫力の保全が重要なわけなのだけれど
免疫不全である花粉症の原因のひとつにも清潔すぎる環境が疑われている
というわけである。
また、水分を除いた大便の三分の二ほどは
腸内細菌なのだというのだが、日に三度も出てくる私の体内の
細菌たちはどうなっているのだろう?

ごくたまに極めて便通の良い男としてうらやましがられることもあるが
このために苦労することもあるのだ。
以前、雪の降り積もった晩、大酒を喰らって千鳥足で帰る時に猛烈な
便意に見舞われた。真夜中のこと、人通りもなかったが開いている店もなく、
町中で何とか始末するしかない。どこか、なにかと探すうちに、
事態はいよいよ切迫し、まったなしの状態に追い詰められた私は
尻をおさえて内股の千鳥足である国家の施設の敷地に駆け込んだ。
建物と建物の間には狭い余地があって、そこに降り積もった雪の中で
用向きを済ませて何とか事なきを得たのだった。
「ふ、危なかったぜ」
危機を脱した私は一仕事終えたような充足感とともに立去り際に
後を振り返ると、そこにはいつもにもまして巨大な成果物が鎮座していた。
「国の税金で何とかしてもらってくれ、おれはきっと高額納税者だから、うん」
動揺しつつ訳のわからない事をつぶやいて早々に立去ったのは言うまでもない。
かの君が春の雪解けまでには何とかなったのか、腐乱死体となって発見されたのか
残念ながらその顛末は知らない。

このように過糞症には過糞症のつらさがあるのだ。
過糞症も花粉症もできればかからないにこしたことはないのだろう。
私の趣味(?)の散歩のページを見ていたら、荷風症という言葉があった。
永井荷風の日記みたいな生活をする人のことかいな。
ん、同じ「××症」でもこれならいいね。

『セネカ 現代人への手紙』と『銀魂』

「セネカ、現代人への手紙」 中野孝次 / 岩波書店

ローマ時代の哲人セネカの手紙に解説を加えてまとめたものだが
大昔からまさに現代人に向けて書かれたのではないかと思われるほど
はっとする生き生きとしたセネカの言葉がわれわれをとらえます。

「金だの物だのは、真に自分のものではない。いくら惜しんでしがみついたところで、運命がその気になれば、いつでも取り戻してしまう。よき人生を送ろうとしたらまず時間をこそ惜しまねばならない。かき集め、大事に守り、
おのれ一個の魂のためにのみ使用せよ。」

こんな一節に感銘を受け、まさにその通りだった、と膝を打って立ち上がったところに、な、な、なんと「サマータイムの法案申請へ」と言うニュース。

私の理解するところ「サマータイム制度」とは省エネとか余暇の充実とかいう言葉を隠れ蓑に、一日に24時間しかない時間のうち各自の「個人的な時間部分」を「社会的な時間」に強制的に移転しようとする制度のことだとおもっております。

そもそも朝早出して余った時間をさらに生産に振向けようというのがその昔の導入の意図だったと聞きますし。

これまでも消費税やら国債乱発やらゼロ金利やらで個人の金融資産をどんどん国家や大企業に移転させられてきたわけですけれど、こんどは時間をもっとよこせというわけですね。惰眠をむさぼってないで働くか浪費するかして経済の発展(誰かの利益)に寄与せよ、というわけですか。

金を巻き上げ、時間を巻き上げ、この先も人間からの収奪がエスカレートしていって、「人間には腎臓や目玉が二つもあるのに効率的な利用がなされていない」というような議論が出てきて、臓器基金運用法とかが成立して一方の臓器を臓器基金に強制的に取上げられてしまうかもしれません。もちろん人体に残ってる臓器が将来万一だめになったら基金から一回は臓器が提供されるけれど、余剰な臓器は臓器基金が臓器移植ビジネスマーケットで運用するわけですね。
厚生省あたりの巨大利権になったりするかも。

そこでで思い出してしまった、「銀魂」 空知英秋 /集英社ジャンプコミック (連載中)

宇宙人天人(あまんど)来航から20年、ちょっと妙だが新撰組や宇宙人の跋扈する幕末の日本。
糖尿のおやじである主人公、何でも屋の銀ちゃんが家賃滞納、金欠極まって相方のバイト少年に言う。
「なあ、腎臓って二つもあってじゃまだとおもわねえか?」

ストーリーの流れではささいなシーンなのだけれど、今の日本だってこのくらい困窮してるのかもなあ、と妙に感心してしまったのでありました。

サマータイム制度で目指す死ぬほど豊かな未来

なんでもとうに死んだだと思ってた「サマータイム制度導入」の法案成立を目指す超党派の動きがまた息を吹き返してきたようですな。
なんで今頃サマータイム? そんなものになんでそんなに血道をあげるの?ここはひとつ推進派議員のセンセイにインタビューしてみましょう。。。。

(センセイの談)
皆さんねー困るんですよ、私のサマータイム法案に反対なんて言ってもらっちゃあ。今日本がどんな事態に見舞われているかわかってるんですか?、今の日本を家庭にたとえるならそれこそ、
「お父ちゃんの会社は放漫経営と投機失敗で倒産寸前、嫁さんは外の男に貢ぎまくり、息子はカンベツ所だし娘はガッコも行かんでプー子だし、同居のボケた爺さんの代からふくらんだ借金返す当てもなくて、今日にも怖い取立てのおっさんが押しかけてきて身ぐるみみはがれるんじゃないかという状況」
なんですから。
今こそこの未曽有の国難に国民の力を結集して取り組まねばならんというのに、やれ、早起きは嫌だとか、それ、省エネ効果なんて微々たるもんだとか、文句つける連中ばっかりだ。

これまでだって私がどんなにか努力してきかよく知ってるでしょう?
銀行の「ゼロ金利政策」に保険の「予定利回り引き下げ」、「ハイリスク型金融商品」の垂れ流しでもって、国民の皆さんの金融資産をせっせとかすめとって、いや、国家や大企業に移管を進めてきたわけで、あとはなんとか「預金封鎖」とハイパーインフレでも起こすだけかなというところまで来ておるわけです。でも、60年前の終戦直後ならともかく、現代はまだそんだけでは足らんのです。世の中社会には将来は今より良くなるという希望も見通しもなければ、国家一丸となってという気概もない。そんな世の中でこれから何が起きようとも、皆さんには必至に寝る時間もけっぺずって働いてもらわねばなりません。 そこでこの「サマータイム」の登場となるのはわかってんですよね? そりゃあこれまでだって、「裁量労働制」だの「成果主義人事」だの実質賃下げしてみっちり働いてもらう工夫はいろいろしてきましたよ。でもまだ足んないんですな。思い起こせば欧米の圧力に負けて労働時間の短縮なんて安請け合いしたのが良くなかったのかもしれません。いっぺん時短やったら引っ込みはつかんし、みんな勝手なことほざいて働かないようになってしまった。

そんで「サマータイム」、なかなか名案ですなあ。省エネなんていう直接効果は微々たるもんだし、間接効果も耳障りのいいお題目なんだからうっちゃっておくとして、この「サマータイム導入のコスト」こそはまるで金のなる木、私にはもうウハウハものですな。だって、適当な試算でさえ時計やコンピュータの切替だけでも一千億円ですし、新しいサマータイム対応機器やら、簡単になじめない人のための対応グッズの便乗販売は出るし、少なくとも一時間は会社に早く出てきても夕方まだ暑いから会社でサービス残業する風潮の醸成も楽だろうし、お調子者がまだ明るいからといって早くから遅くまで遊んでてくれるだろうし、いいことずくめなんですな。
24時間しかない一日の時間の個人の取り分をふんだくる、いやいや、社会的生産活動に移管するいい方策ですよね。

なに?、あんたはこんだけ言ってもまだ文句言うか? 真っ暗な内にラジオ体操なんかできない? 夏の星空観測会がとんでもない遅い時刻に開始になってしまう? 余裕のある豊なライフスタイルと矛盾する? 
あんた、何言ってんですか、ダメダメ、そんな金のかからない遊びなんか、ダメに決まってるじゃないですか。豊かなライフスタイルは豊かな消費からって言うじゃないですか、まだ明るいうちに時間があるんだったらデパートやショッピングセンター、有料スポーツジムにでも行ってくれなきゃ。
惰眠は敵だ!、一億早起き! サマータイム制度万歳!
 死ぬほど働いてきっちり浪費!
 そしたら私も安泰というわけですな。


センセイの話はまだ続くのだけれど、私は睡眠時間はきっちりとるタイプなのでもう寝る。たとえサマータイム制度が私の時間を奪おうたって。

『預金封鎖』・『スクリーンの中の戦争』 

「預金封鎖」副島隆彦 / 祥伝社黄金文庫

私は子供の頃亡くなった祖父から何度か、第二次大戦後のまもなくの、「預金封鎖」の話を聞いたことがあります。
一生懸命ためた預金が自由に引き出しもできなくなってそのうちに物価は上がり、お金の価値はどんどん下がって結局蓄えが蓄えとして機能することはなかったというものでした。

だからなのでしょう、いずれ国家が破綻に瀕して行き着く先は高度のインフレと統制経済・預金封鎖による国民の金融資産の収奪であろうというのは規定の事実として私の意識にはずっと以前から刷り込まれていました。

この本では、昨今の具体的な金融政策とその結果の事実をふまえて「2005年以降の数年の内」にアメリカ発の金融恐慌とハイパーインフレに端を発する、「統制経済と預金封鎖」が2005年以降数年内に現実のものとして現れるという予想をしています。

日本もアメリカも返済の目処の立たない国債の乱発とその場しのぎのでたらめな金融政策で破産寸前というのは現実感はなくとも誰もがどこかで見聞きしたことはあるでしょう。でもその行き着く顛末を具体的に提示されて心穏やかでいられる人は多くないのではないでしょうか。
自分の将来に希望をつなぐ(はずだった)貯金やその他の蓄えが合法的に巻き上げられ、また価値をなくしていくということなのですから。たとえばこれまで貯蓄2000万円あるから家でも買おうかともっていたら、ある日発動された預金封鎖で銀行預金ばかりかタンス預金も自由に使えず、やっと使えると思ったらなんと20%を税金で引かれ、物価急上昇のインフレで貨幣価値千分の一になってしまって、先の2000万は今日は実質1万6000円、家を買おうと思っていたけど、1万6000円しかないから、家は買えないけどまあ一杯行こうかというようなものですね。
が、しかし、金融資産を多く抱えて金融資産が人生の目的の人には大きな痛手となるでしょうが、私のような多くの貧乏人には少々の金融資産の目減りを受け入れれば諦めもつく範囲かも知れません。そもそもたいした蓄えがなければ収奪され要もありませんし、60年前もそうだったように、これからなにが起きようとも日常は続いていくのでありますから。


で、「スクリーンの中の戦争」坂本多加雄 / 文春新書

本書は「戦争映画」についての論評ではありますが、一貫して扱われるテーマは戦争という異常な事態を通して考える人間の「日常」です。
戦争を直接知らない私達は、第二次大戦の日本の国粋主義も、アメリカが今もって負の遺産を引きずっていると言われるベトナム戦争も、現代の条件とは異なる理解不能な異質で異常なものと深く考えずに片づけてしまいがちです。でも著者は戦時の異常な状況を日常と紙一重であることを解き明かしていきます。

たとえば蔓延するファシズムについて、その積極的な担い手はごく普通の商店主や教員、小地主、僧侶や神官、自作農らだったことを、映画のシーンを通して説得していくわけです。「ファシズムは没落した中産階級の思想と言われ、上流階級や労働者のものでなく、生活基盤を脅かされている中産階級の出身者の危機感の産みだしたラディカルなイデオロギーである。」
「理想とは理想通りに現実を動かすためにあるわけではなく、ある現実を整理したり、現実を目標づけるためにある」

また、普通の市民とは別に日常生活にうまく適合できない、不器用で世間ずれのできないアウトサイダー的な人間が戦時体制に過剰に適応していく様をとらえて次のようにも述べます。「日常生活の中のアイデンティティの欠如した人間は、何らかの理念に依存しなければやりきれない部分がある」

まさに、人生・世の中の適合・不適合は平時・非常時それぞれその時に置かれた状況次第ということかもしれません。

しかしながら、多くの普通の人間の中には戦争中にもそれこそミッドウェー開戦に参加しながら飯炊きばかりしていた人間もいるわけですし、個人よりも国家の戦時体制一辺倒でいながら様々な個人的には悲哀を味わった人も多いはずです。人間は、時代がどんなに異常な事態を演出しようとも自分の日常と折り合いをつけて妥協点を見いだし生きて行かねばならないのです。それは戦中においても平時に戻っても、いつの時代も同じことなのです。
「人はこの世に生まれ、出会いと別れを経験し死んでいく。日常とはこの原型の上になり立つ世界である。」

・・・この先金融崩壊で経済社会が激変しようとも、人間の日々の営みは続いていくのでありましょう。

古書衝動殺人事件


先日、地方都市の郷里の友人から聞いたところによると、そこでは
旧タイプの古本屋は絶滅してしまったとのこと。(県庁所在地なのに!)
幸いにしてうちの近くには新古書店でないない昔ながらの古本屋がまだ二軒あって
私の本屋巡り散歩ライフに彩りを添えてくれております。

昔ながらの個人商店の本屋や古本屋の衰退は目を覆うばかりですが
本屋なんて、まして古本屋なんて便が良くて安けりゃどうだっていいと
思ってる人も多いということかもしれません。もちろんそれ以前に本離れの
今の風潮による絶対的な書籍に対する需要が減っていることはあるでしょう。
でも、そもそもデフレの時代にあって書籍は値段の下方硬直性もまた
本の大量リサイクルを行なう新古書店の躍進を招いたことも否めません。

よく本を買う私としても「本は安くない」とは常々思っていますが
本の適正価格とはどれほどのものなのでしょう?
私の本を買うという決定はどのように下されるのか、考えてみると「衝動買い」以外のケースなんてほとんどないように思えます。(アレ?)
新刊買うのも古書を買うのも、町の店で買うのもインターネットで買うのも
仕事や試験の参考書以外はみんなどれも衝動買いの結果。
衝動買いの対象に適正価格を設定するなんて、できるわけありませんね。

で、先日突如思い立ってブック・○フへ「衝動売り」行った結果
買取値はこんなところでありました
DVD(映画)     定価の40%
DVD(音楽)     定価の30%
DVD(ドキュメント) 一律600円
CD       400円~10円まで、ほとんど100円
単行本ハードカバー   最高150円
漫画本         一律100円

私は基本的に本には線を引きながら読むので
売りに行ける本はあまりないので次回はいつになりますことやら。

ロシア人もびっくり?

なんでもWHOには、年間アルコール摂取限度値と言うのがあるそうで、
これが年間8リットルで、日本酒に換算すると約28升、つまり一週間あたりでは5合強。
日に二合とか、あるいはビール瓶2本とか飲んでいたら年間アルコール摂取量は14リットルにもなり、これはロシア人並!
(ロシア人は13リットルなんだそうな)

今まで量的制約を気にしたことはなかったのだけれど、
というより、日に二合相当かつ週に一度は休肝日、オレって健康的~!と思っていたのに、アル中人口世界最高(?)で平均寿命59才のロシア人並の酒量とか言われるのは、ちと気になりますかな。
健康のために飲まないのか、健康だからこそ飲んで楽しいと居直るのか、
人生は次々に厄介な選択を迫られるようになっているようです。
ま、ここはこの際「適当」という選択(?)にて御免、ですかな。

そして木曜までの今週の酒量は一升五合(日本酒換算値)
WHOがなんだ!
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