酒とホラの日々。 -80ページ目

雨降り散歩の季節

天気予報では明日からはしばらく雨の日が続く模様

梅雨入りももう間近か。


そういえば先日のこと、

季節柄、樹の芽の甘い香りのする雨の晩、
傘をさして歩いてたら迷子になった。
何度も歩いたことある道なのに、
こんなところにこんな小道があったかなと思って
足を向けてみたのが、迷路に入り込むきっかけになった。
木立の奥にあったのは瀟洒な洋館。

雨にけぶる建物は映画のワンシーンのようで

何か得した気分で家に帰ると、嫁さんが

「何、そーの頭」

そう、私の髪はクセっ毛がひどく、

雨にあたると広がって、爆発頭となる。


雨に濡れて正体暴露、
おしゃれな映画気分も一転、これじゃホラーだよ。

脳死 臓器提供先進国の健全な議論に学ぶ

去年私の往訪したA国では「脳死は一般的な人の死」という国民的な合意があって、国内的には移植臓器の供給に大きな不足はありません。


臓器の提供を決めるのは本人ではなく、残された「家族の同意」なのですから、意思決定のプロセスを余計な感情論に左右されることなく、ポイントは勘定論だけ、と非常に明快です。
「・・心臓? いくら出す?」


一応表向きは当事者間で臓器は売買できませんが、グズる家族に対して提供を促すのも、患者側が臓器ドナーへの感謝の気持ちをどう表すのかも、ちゃんと病院が仲介してくれます。


私がおじゃました○○家では、半年前に脳死判定されたご主人がまだ日本でいうところの生命維持装置につながれて保存されておりました。奥さんが言うには、大きな事故や災害があると臓器相場が急上昇するので、提供するタイミングを見計らっているのだそうです。
「亭主の生命維持装置がはずれたら、私、世界一周旅行に行くのが夢なの」


脳死と臓器提供法案ができて以来、町中からホームレスがいなくなったり(入籍や養子縁組できた)、貧困家庭の中にはなぜか急に裕福になった家があったりしているのですが、マスコミから流れるのは「社会的な好循環現象」としての報道だけです。


もちろんこうした風潮に批判もあります。しかし臓器提供法案への批判の大部分は、「何で自分の体を提供した本人がいい思いできないのか?」と言う点に集中しています。意思表示ができなくなったというだけで、他人の臓器を切り売りするくせに、自分の体の始末を自分で決めて何が悪い?という議論は、家族とはいえ他人が体を切り売りする現行臓器提供法より確かにずっと健全です。


つまり、現行の臓器提供法をもう一段進めて存命中の本人の意思で何でも必要な臓器を供給できるようにするのがA国における今の臓器提供論議なのです。


すでに法案の成立を見越して、市中では「人生リバース・モーゲージ」という企業も営業活動を開始しています。

これはつまり、将来の臓器提供の確約に対する対価の割引給付です。
例えば、自分の臓器の提供日が3年後と決まったら、契約日から提供実施日までの3年間は提供臓器に応じて生活費が支給されるようなものです。3年目の実施日には契約した臓器を提供しなくてはなりません。
事前支給の分、本来の対価を一定額割り引かれてしまうことや、対象臓器の多寡によっては普通の生活に支障もきたす不安もあるでしょうが、契約金の前渡しが魅力です。


「そんな貧乏暮らしさっさとやめて、目ン玉売って、腎臓売って、肝臓売って、きれいなベベ着てうまいもん食って暮らしたらエエ。何も怖いことなんかないんじゃ。ちょっと目えつぶってるうちにすーぐ終わってるって、なあ。」


・・・人生リバース・モーゲージの日系営業員の河野太郎さんが今日も勧誘に回っています。


野生の植物

先日、某高級園芸店で草花の苗の棚を見ていたら、なんと「ドクダミ」や「ヘビイチゴ」が並んでいたではありませんか!それも結構なお値段で。それで驚いたというのはもちろん、私の認識不足なのでしょう。


でも、その時は目から入った情報が延髄で折り返して「こ、これって雑草じゃあ・・・」と思わず言ってしまったものですから、いいカモが来たと思ってかもみ手で近づいてきた店主のおじさん、黙って向うに行ってしまいました。


確かに雑草か園芸品種かという区分は人間の勝手な都合に過ぎません。
昭和天皇だって「雑草と言う草は無い」とのたまっています。

第一、我が庭にも雑草のサイクルを取り入れた一角があって、春にはカラスエンドウの花と緑の蔓に始まって、やがてヒナゲシの花が頭をもたげて咲きそろい、今はヒルサキツキミソウの淡いピンクの花が風に揺れています。


どれも一般には「雑草」扱いされる植物ばかりですが、密生し季節とともにダイナミックに植生が変化する様子は決して園芸用の草花を植え付けた花壇に引けを取りません。

あるがままの美しさはを称えるべきは、何も人間だけのことではありませんね。


・・・ただ、決してこれは「雑草取りが面倒でほったらかしにしていたら予想外にうまいこといったのを、後付けで屁理屈をこねている」、というわけではないということを誰も信じてくれないのですけれど。


夕立と婦人靴売り場

土曜、夕立に見舞われてデパートの一階に逃げ込みました。

デパートの一階部分はたいてい婦人物商品がスペースを占めていて、外の世界と一線を画しています。特に靴売り場は女性たちのほっとしたようなゆるい空気が漂っていますね。


スツールに腰を下ろし、歩きづらそう(?)な華奢な靴を脱いだ女性たちは、街歩きのおしゃれの緊張感が一時解けるのでしょうか。リラックスして素足を投げ出す女性の群像は後宮の女御たちを描いた絵画にも似て、ほのかになまめかしさも漂うようです。

まじまじと見入る訳にはいきませんが、あの「富美子の足」や「瘋癲老人日記」を書いた谷崎潤一郎が見たら、一級のフット・フェティシズム小説を作り出したかもしれないと、ぼんやり考えておりました。


でも、私は婦人靴屋は苦手ですね。以前嫁さんの靴買うのに付き合って十数軒引き回された挙句に結局買わなかった記憶がトラウマになっていますので。どうして女性の買い物っていうのはこう・・・。



弱まる気配のない雨をショーウィンドウ越しにちらと見やると、私は未練ありそうな嫁さんを脅してすぐに別の売り場に転進したのでありました。

もうすぐ桜桃忌

太宰治が山崎富栄と玉川上水で心中したのは、1948年の6月13日のこと。
そして水死体として発見された19日は桜桃忌として今も故人を偲ぶ人々が集います。でも実は太宰は死んでいなかったというのは知る人ぞ知る公然の秘密だそうですね。


このとき上がった土左衛門は全くの別人で、早川重太という文学部の学生崩れの遊び人。自殺志願者として注意されていた太宰がついに死んだと報道されたので、当の本人、これ幸いと別人に成りすまして人生やり直しに一時は成功し、結構な面白おかしい生活をしていたようです。


上野駅前のナンパ爺さんといえばわかる人もいるかもしれません。
娘が銀座の売れっ子ホステスだったのも有名だったようです。
さらに年取ってからは命のダイアルの相談手として確かな信頼を得ていたというのですから、人間本当にわかりません。


しかし60台半ばのときにボケが始まって、あちこちの施設を転々としたあげくに失踪、70過ぎた頃に昔住んでいた船橋の家のあったあたりでキョウチクトウの花を手に徘徊しているところを保護されました。今は都内の老人施設の世話になっており、今年96才になる太宰はこっけいな話をする爺さんとして施設の人気者とのことだそうですね。


本人は「私が太宰治」であると公言してはばからないそうですが、太宰は死んだということで世の中済んでしまっているのですから、いまさら生きているといっても新たな商売になりそうにないし、印税や肖像権をまた払わなくてはならなくなる損失の方が大きいので、「太宰の蘇生なし」はマスコミ業界全部の了解事項になっていると言うのですね。


そういえば太宰生存説をテーマにした小説や小話はよく見かけましたが、どれもたいした扱いを受けていないのはこうした出版社の意向なのでしょうね。


・・・そこでなにかひとつくらい太宰生存をネタにした小説を紹介しておこうと思って本棚を探したのですが、酔っ払って見つけられません。・・・すみません。


或る無信教者の法悦  宗教勧誘撃退法

会社の帰り、駅前で宗教勧誘に声をかけられました。


今回声をかけてきた宗教活動家は、若いめがねの神経質そうな社会人風のお姉さんでありました。それが聞けば、近くで集会があるからこんど見に来てくれといいます。さらに集会のパンフなどを見せて、
「ほら、参加者はみんな目がキラキラしてるでしょう?」
などと言って同意を求めてきます。


無神教の私ですが、なぜかこの手の勧誘にはうんざりするくらいよく声をかけられるので、この程度の応対は実はもう慣れっこでなのであります。
「ほう、○○教会ですか、

○○教会は××師の創始による正統解釈の実践派の名門ですよね。
(などとまず適当におだてていい気にさせる)
やっぱり、現代の日本人に必要なのは信仰心ですよね。

実は私も東方弥勒大権現教にお世話になっているんですよ。

そこでアジアの連帯と世界平和のため日夜ご祈念しているのですが、

ちょうどこれから祈祷の会に行くところなんですよね。

宗教は家族、信者は皆兄弟ですから、

ぜひあなたも一緒に行きましょう。」(ここで目に力を入れる)

これでノコノコついてきたやつは皆無です。
ただ今回は調子に乗って
「さあ!ご一緒に!」と、
厳かに手をとろうとしたのはやりすぎだったかもしれません。


お姉さん、パニクックになってひどくうろたえていました。そこでもし大きな声でも出されたら人通りの多い中で私がまるでよからぬヤツのですので、そこは神速の逃げ足でもって姿をくらましたのでありました。

それにしてもあの動揺ぶり、私は彼らと同じ行為を返しただけなんですから何で私が逃げなくてはならないんでしょう。天下の往来で自分たちが見も知らぬ他人にになんと胡散臭い迷惑なことしことをしているか身をもってわかってくれたでしょうか。


そうなんです、実は私は彼らにそこを気付いてもらいたくてこんな行動をしていたのです。
(ウソです。ただのソウ行動です。)


緊急情報 夢の不老薬、実用化間近!

実は夢の「不老薬」はすでに数年前に日本で開発されていて、臨床試験が続いているらしいのですね。
これを用いれば壮年期の体力と外見を保って150歳~200歳くらいまで健康に過ごせると言うのですから大したものです、素晴らしい!!


ただ、このクスリを世に出す方法を巡って綱引きがつづいており、ことは高度に政治的な要素をはらんで今もって決着がついていないのだそうです。


問題のポイントは大まかにはふたつあって、それは
  「人が死なないことによる人口増加による食料不足」と 
  「人が退場しないための世代交代の停止による社会の停滞」です。


いまのところこれを回避するため有力なニ案があって、ひとつは高価な売薬として一部の金持ちのそれも上位層のみをターゲットとして販売すること。もうひとつは社会保険料で薬代をまかない全国民に恩恵を行き渡らせること。


第一の案では利用者が限定されるため人口問題への影響は軽微です。みんな不老薬を買えるように頑張って働くので経済にもプラスの影響が期待されるとされます。
でももし自分がいくら個人的に努力しても決して買えない側でしかないとわかったら、私は年齢右翼となって金持ち抹殺テロをやりますがね。


もうひとつの第2の案では、このままでは問題解決になりませんので、全国民は65歳で「あがり」として安楽死センター送りとする施策がセットされます。無制約の長寿ではありませんから人口問題も、世代交代の停止も心配はありません。さらには、みんなたいてい若くて健康で65才で確実にいなくなるのですから年金の支払は不要になり、老人医療費も激減して、国家財政も安泰となります。もちろん、私はそのときが近づいたら逃亡しますがね。

でも最後は老人狩りのブレードランナーみたいなのに追い詰められて自殺でしょうか。


ありゃぁ、なんだか、不老長寿の明るい未来が待っているかと思ったら、私の行き着く先はテロリストか逃亡者なんですかぁ・・・。


・・・いずれにせよ田舎に庵を結んで、毎日鳥を眺め歌を詠んで暮らすというわけにはいかないようで。


明日なき世界

子供の頃、たぶん何回目かのリバイバルで流行っていたモンキーズの「デイ・ドリーム・ビリーバー」。
ラジオから流れる曲にあわせて女の子達が一緒に歌うのをわけもわからずよく聞いていました。曲調と歌手の声からなんとなく、お気楽な明るい歌と言う印象をもっていましたが、後に歌詞を目にしてまったく印象とは大違いの切実な内容にに驚いたのを覚えています。
アイドル調のメロディーと歌声にモンキーズなんて言う軟弱バンドとくれば、硬派ロック少年だった私が甘ったるいお気楽なラブソングという先入感をもっても当然です。
ところが、実態は世間知らずの若いカップルのひりひりするような日常の嘆息を切り取った歌だと知ったのはだいぶ大きくなってからのこと。


子供のころはただ想像だけでわくわくしていたものが、大きくなって実際に世の中の謎が解けてみると意外な実態に出くわすものがなんと多かったことか。


紳士のスポーツ、ゴルフがオヤジの遊びだったなんて・・・
侘び寂び日本の心、茶道は道具の自慢会だったなんて・・・
アトムのエネルギー、原子力発電所は社会の厄介モノだったなんて・・・
未来図を現実化する華やかな都市計画は利権の固まりだったなんて・・・

仕事の実績と評価は別物だったなんて・・・・


求む、「恋愛教育論」の講師

性教育を実施する前に恋愛教育が必要。 ?


かねがね不思議に思っていたことなんですがね、「性教育」ってなんで「やり方」だけを切り出して教えたりするのかということ。何か変、しっくりこないと思っていたら、性教育の過程に恋愛の存在が欠落していることなんでしょうね、これが。


性教育(と言われる)ものを巡る様々な社会問題は、どうやってナニをするとこうなるという「動物的な側面」だけを取り上げて教えているのに、生じた問題を「理性的・倫理的な問題」として裁こうとすることには無理があります。守るべきルールが根ざす精神を教えてもいないのに、お前それはいけない、反則だバカヤロ、とだけいうのはいかがなものなんでしょうかね。

行動に理性や倫理を求めるのなら、人としての感情を直接動物行動に向かわずにどう理性的に扱うのかを論じ、諭す場がないというのはおかしいですわな。


 学校では、「隣に好きな子が来てドキドキしたらどうしたらいいか」、なんて言うことは教えてくれません。確かにこれは方法論として扱うには難しい問いかも知れませんね。

そこで嫁さんにこの事を話してみたら、即座に回答が帰ってきたました。「本当に好きなら、ストレートにに好きだって言ったらいい」なるほど、さすがはうちの嫁さんだ。

ターゲットを見つけたら、好きだと言って、相手にも好きだと言わせる、これこそ究極の目的。


確かに相手に好意を示さなければ何も始まりません。どちらかが一歩前に出て、それに勇気づけられ後押しされる形で、自分もまたもう一歩踏み出してみる。こんな繰り返しで好意が恋愛に発展することだってあるでしょう。

もちろんその過程で、おまえなんか相手にしないと宣言されるかもしれない可能性は大いにあります。


「振られる」というのはつらいこと.しばらく落ち込んでもいなければならないし、落ち込んでいる間はいったいいつ夜が明けるのかも皆目見当が付きません。

 もちろんそれは相手側にもいえることで、こっちが声かけてその気にさせたけれど、やっぱりおまえいいやサイナラということだって有り得るわけです。この時の相手の辛さ、自分のバツの悪さ。


なるべくこんな無用の葛藤を避けるためにはどうしたらいいか。あるいは葛藤を克服するためにはどうしたらいいか。 月並みながら必要なことは自ずと見えてきましょうか。自分を知ること、自分を高めること、相手を見極める目を持つこと、それより何より、人を好きになるということに伴う痛みと、人に好かれることの痛みを知ること。こうした過程に思いが及ばないやつに恋愛などする資格はないともいえますね。

いや、資格とか権利とかいうものではないけれど、こうした意識の辿るの道程こそが人が知らねばならない恋愛論なのではないでしょうか。


 自分がいやなことは相手にもいやだ、だから他人を思いやる行動とは何かを探らねばならなりません。誰だって、世の中で自分が唯一の大切な存在であるわけで、だから、世の中のみんな尊重されるべき大切な存在なのだということになりましょう。即ち、「恋愛教育は、民主教育であり、哲学教育でもある。」ということです。


 ・ ・・残念ながら、今の日本には三つのどの教育もほとんどありませんな。

ある意味酒飲みの鑑

それは私の先輩であるR氏のことでございます。

R氏は元来がプロレスラー体型の大男で豪放磊落に見えて、その実中身は神経質な小心者なのでございます。


しばらく前のこと、間近に迫った自分の結納の緊張に耐え切れず会社の同僚・上司と連日浴びるほど飲んだくれていたのでございました。R氏の周りには酒好きが多い上に、めでたいことでもありますし、緊張してナーバスになっているR氏をからかうのもたいそう面白いので酒盛りは連夜「変な」盛り上りをみせていたのでありました。


さて、結納も明後日という晩のこと、宴会もお開きとなって帰ろうとしたR氏、もう電車がない、しかもすでにスッテンテンでタクシーも拾えないということに気がついたのでございました。しかし、体力抜群のR氏のこと、ま、いいや、と歩いて家に帰ろうとしたそうでございます。しかし、連日の深酒とそもそもの距離がたたって、途中で面倒になったR氏は、あー、もういいやいいや~、と途中の道端に大の字になって寝てしまったそうでございます。


  やがて、朝の光の眩しさに目の覚めたR氏は、自分が見たこともない空き地のそばの道端に転がっていることに気が付いたのでございます。一瞬ボーっとしたR氏でありましたが、もうその日は結納の前日でもあり、田舎から両親もやってくるのでありました。それよりもまず、朝から会社があるわけですので、いつまでも呆けているわけもいきません、とにかく歩き始めたのでありました。


しばらく歩いてなんとか交番を見つけたR氏は、そこでお巡りさんに、自分がどこにいるのかと、最寄りの駅への道順を聞き、当座の電車賃を借りてそのまま出勤し、よれよれの酒臭い、泥や草のついた背広のまま勤めについたのでございます。


  その日の夕方、駅でR氏の出迎えを受けたご両親は、まず最初に、息子が菓子折りを下げて交番に電車賃を返しに行くのに付き合わされたのでありました。


 酔っても自分でなんとかするわが先輩のR氏は酒飲みの鑑であります。

お巡りさんに迷惑をかけたのはナンですが、したたかに飲んだくれても酒飲みはかくのごとくありたいモノでございます。  

      (そんなになるまで飲むんじゃありません!)