『預金封鎖』・『スクリーンの中の戦争』  | 酒とホラの日々。

『預金封鎖』・『スクリーンの中の戦争』 

「預金封鎖」副島隆彦 / 祥伝社黄金文庫

私は子供の頃亡くなった祖父から何度か、第二次大戦後のまもなくの、「預金封鎖」の話を聞いたことがあります。
一生懸命ためた預金が自由に引き出しもできなくなってそのうちに物価は上がり、お金の価値はどんどん下がって結局蓄えが蓄えとして機能することはなかったというものでした。

だからなのでしょう、いずれ国家が破綻に瀕して行き着く先は高度のインフレと統制経済・預金封鎖による国民の金融資産の収奪であろうというのは規定の事実として私の意識にはずっと以前から刷り込まれていました。

この本では、昨今の具体的な金融政策とその結果の事実をふまえて「2005年以降の数年の内」にアメリカ発の金融恐慌とハイパーインフレに端を発する、「統制経済と預金封鎖」が2005年以降数年内に現実のものとして現れるという予想をしています。

日本もアメリカも返済の目処の立たない国債の乱発とその場しのぎのでたらめな金融政策で破産寸前というのは現実感はなくとも誰もがどこかで見聞きしたことはあるでしょう。でもその行き着く顛末を具体的に提示されて心穏やかでいられる人は多くないのではないでしょうか。
自分の将来に希望をつなぐ(はずだった)貯金やその他の蓄えが合法的に巻き上げられ、また価値をなくしていくということなのですから。たとえばこれまで貯蓄2000万円あるから家でも買おうかともっていたら、ある日発動された預金封鎖で銀行預金ばかりかタンス預金も自由に使えず、やっと使えると思ったらなんと20%を税金で引かれ、物価急上昇のインフレで貨幣価値千分の一になってしまって、先の2000万は今日は実質1万6000円、家を買おうと思っていたけど、1万6000円しかないから、家は買えないけどまあ一杯行こうかというようなものですね。
が、しかし、金融資産を多く抱えて金融資産が人生の目的の人には大きな痛手となるでしょうが、私のような多くの貧乏人には少々の金融資産の目減りを受け入れれば諦めもつく範囲かも知れません。そもそもたいした蓄えがなければ収奪され要もありませんし、60年前もそうだったように、これからなにが起きようとも日常は続いていくのでありますから。


で、「スクリーンの中の戦争」坂本多加雄 / 文春新書

本書は「戦争映画」についての論評ではありますが、一貫して扱われるテーマは戦争という異常な事態を通して考える人間の「日常」です。
戦争を直接知らない私達は、第二次大戦の日本の国粋主義も、アメリカが今もって負の遺産を引きずっていると言われるベトナム戦争も、現代の条件とは異なる理解不能な異質で異常なものと深く考えずに片づけてしまいがちです。でも著者は戦時の異常な状況を日常と紙一重であることを解き明かしていきます。

たとえば蔓延するファシズムについて、その積極的な担い手はごく普通の商店主や教員、小地主、僧侶や神官、自作農らだったことを、映画のシーンを通して説得していくわけです。「ファシズムは没落した中産階級の思想と言われ、上流階級や労働者のものでなく、生活基盤を脅かされている中産階級の出身者の危機感の産みだしたラディカルなイデオロギーである。」
「理想とは理想通りに現実を動かすためにあるわけではなく、ある現実を整理したり、現実を目標づけるためにある」

また、普通の市民とは別に日常生活にうまく適合できない、不器用で世間ずれのできないアウトサイダー的な人間が戦時体制に過剰に適応していく様をとらえて次のようにも述べます。「日常生活の中のアイデンティティの欠如した人間は、何らかの理念に依存しなければやりきれない部分がある」

まさに、人生・世の中の適合・不適合は平時・非常時それぞれその時に置かれた状況次第ということかもしれません。

しかしながら、多くの普通の人間の中には戦争中にもそれこそミッドウェー開戦に参加しながら飯炊きばかりしていた人間もいるわけですし、個人よりも国家の戦時体制一辺倒でいながら様々な個人的には悲哀を味わった人も多いはずです。人間は、時代がどんなに異常な事態を演出しようとも自分の日常と折り合いをつけて妥協点を見いだし生きて行かねばならないのです。それは戦中においても平時に戻っても、いつの時代も同じことなのです。
「人はこの世に生まれ、出会いと別れを経験し死んでいく。日常とはこの原型の上になり立つ世界である。」

・・・この先金融崩壊で経済社会が激変しようとも、人間の日々の営みは続いていくのでありましょう。