酒とホラの日々。 -79ページ目

え、 Musical Baton ?

この書き込みは、liuさん から振られたネタに基づくものですが、

ご指名頂いたのは良いタイミングでした。

どっかで私の岩石ライフに触れてみたいと思っていたのですが

なかなか私の屈折した音楽生活を人様にみせる取っ掛かりが

なかったものですから。

 

設問に答えて行けばいいのですよね、こりゃ楽だ、と思ったらムム・・

 

【その1】コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量

CDはともかく、古いLPやカセットから

取り込みを始めたことがあったのですが、

その後のファイル分割やデータ入力・整理に手が回らず、

取り込みも整理もすぐに放棄、

たぶん、もうすでに老後の楽しみ

(まあ、そのときまでPCやMP3なんてのがまだあれば)と
なっております。

 

で、ざっと見たところ15G 意外と少ない

 

【その2】今聞いている曲 (CD)

 

  小松未歩 7 ~prime number~

 

 この人、まだ活動してたんですね

 

【その3】最後に買ったCD

実は、100円ショップの落語CD多数。

この辺の事情は、6月10日の書込みのとおりで、こういうこと なんですが、

ははは。 

私が落語聞きに行くのはもっぱら新宿三丁目の末広亭なんですが、
近頃はなかなか行くヒマがありません。
でも最近どうしたわけか落語がブーム? 何が起きてるのですか??? 
  

【その4】よく聞く & 特別な思い入れのある5曲

これ、ひとつの質問になってますけど「よく聴く曲」と、

「思い入れのある曲」は別ですねえ。

 

以前、その時々に聴いていた曲は、その時々の個人的な状況や思い出とセットだったりすることがよくあって、昔感情移入して聞いていた曲をたまたま今聞いたりすると、当時の恥しい状況や失敗の記憶もフラッシュバックしたりして、

普段冷静を装う私にが一人で「うわああっ!」ω( ̄|ロ ̄|)ω

とわけのわからないことを口走って、また新たな恥をかく、

なんて危険もあるわけです。

 

だから、「気に入っているのに注意深くこれを避ける」曲

なんてのが存在しますね。
書いてるだけで冷や汗が出てきた。 
 

そんな「思い入れ」のある曲では、

 

 This Old Heaet of Mine  /ロッド・スチュワート版

 

 White Rythm and Blues   /J.D.サウザー

 

 The First Cut is the Deepest / キャット・スティーブンス

 

 Long Distance Love     / ニコレッタ・ラーソン版

 

 Heart of Stone         / ブルース・スプリングスティーン版

 

なんか古今のLove Songの名曲が多いな~。


いやなんの、波風と恥多き人生は、現世の責務に誠実なる証し。

 

一方、「よく聞く」のは5つに絞るのは難しいのだけど、

アルバム単位でピックアップすると

 

 四重人格  / ザ・フー

 

 狂気    / ピンク・フロイド

 

 SPARKLE / ガーネット・クロウ

 

 ゴールドベルグ変奏曲  / グレン・グールド81年版

 

 バッハ 無伴奏チェロ組曲 / パブロ・カルザス版

 

素直に書いたら、なんかこっちは内省的なのが多いかな・・。


男はいつも幾多の苦悩を背負い、黙して語らず。

 



パンツとサルマタの恥ずかしい関係

昔は口にのぼるのも恥ずかしい言葉というものがあって、

下着の名称などがまさにそうで、「パンツ」などというものはその代表格であった。

 

いつから日本人はパンツと平気で口にし、あまつさえ、サルマタのことばかりかズボンのことまでも「パンツ」と称するようになってしまったのだったか、これがよくわからない。

 

ピンポンパン体操で、トラのパンツははいてもはいてもすぐ脱げるものだと教わった時からだろうか。

水前寺清子が当時のトレンディードラマで、ワゴン車のパンツ屋を開業した時からだろうか。

 

 

それにしても「パンツ」は恥ずかしいのに「サルマタ」は恥ずかしくなかったのだったかよく思い出せない。

松本零士のたぶん最高傑作である「男おいどん」の主人公は「サルマタの怪人」と呼ばれ、居宅であるおんぼろアパート四畳半の押入れには、人脂の染みた湿った縞模様のサルマタが一杯で、

何かあるとなだれを打って部屋に溢れ出すのであった。

このサルマタの山に大量に生える「サルマタケ」というキノコがまた出色で、あるときは主人公の主食であるラーメンライスの具となり、またある時にはカサの上にコスモスの如き花を咲かせて主人公の心を慰めた。

 

この漫画「男おいどん」は大変人気でクラスで教師を含めて回し読みしていたくらいだから、「サルマタ」はたぶん恥ずかしくなかったのだろう。

 

恥ずかしくはなかったが、主人公がラーメンの具にサルマタケを入れて食うシーンが何度も出てくるので、男勝りの女傑教諭を含め、これを読んだ女子諸君が、しばらくキノコや麺類が食えなくなるという症状に陥った。

これは今もって不思議である。女性の心理というのはわからん。

 

ワカランのだがいずれにせよ、女物のズボンが先に「パンツ」と呼ばれるようになった気がする。


また、ズボンの「パンツ化」と共に「サルマタ」と言う呼称も衰退していったような気もする。


女性のサルマタを厭う感覚が「パンツ」と結託して「サルマタ」を駆逐したのかもしれぬ。

 

 

会社と「資格」と幸福の微妙な関係

不動産関係の会社に勤めるいとこが、社会保険労務士の資格を取って会社を辞めたのはおととしのこと。去年は少々の充電期間を経て公的資格を武器に再就職活動を始めたものの、現実には今もってぷー子の状態です。

 

おととしまでいた会社では、厳しい勤務環境の中、自己啓発だのなんのと資格取得が奨励され、資格取得の有無がが毎年の評価や昇格の際に考慮されるという脅迫つきの方針が明示されていたそうです。ま、いまどきどこの会社でも珍しくもないことでしょうね。

いとこ曰く、その会社の人事政策を逆手にとって、会社の補助で世間で通用する資格を取って自ら新しい道を掴み取る、ハズだった。

 

ところが、実際再就職活動を始めてみると、「ここは」、と目星をつけた会社の面接に行ってみると、ことごとく不採用となりました。早い話が、「資格保有者にはなにがしか手当てをださなくてはならないのだが、実務経験のない資格だけ持ったヤツは現場で即戦力たり得ないので、いらん」というわけなのですね。

でも意中の会社にハネられたとはいっても、前の会社にはそれなりの不安があって飛び出したわけなので、中途半端な妥協はしたくない、で、今もってぷー子というわけなのですね。

 

わがいとこ、公的資格だけを頼りに意図したとおりに転職が進むと思ったのも虫のいい話だといわざるを得ませんね。世の中、会社では資格資格と言いますけれど、会社が資格取得を奨励する意図は、実務上の戦力向上ばかりではないのですから。

私も職務上資格取得講座ではお勧めの部類(?)の公的資格をいくつかもってはおりますが、医師や弁護士の免許ならいざ知らず、実務でこんなものが何か役に立つとはとても思っておりません。

 

出来るので仕事が集中して忙しいヤツが資格を持っているとは限らないし、実務はまるでだめな役立たずが、資格だけはたくさん持っているのも良くあることでもありますし。

 

会社が資格取得を進めるのは、実力養成は別にすると、「会社施策に対する忠誠心」の尺度、ひいては「賃金抑制の口実」といった意図が大きいのですから、社内での資格取得運動と中途採用のニーズとは、必ずしも同根とはいえません。

 

中途採用は実務の即戦力が主なニーズだったりしますが、社内的には賃金抑制に文句を言わず会社施策を忠実になぞってくれる都合の良い社員であるのが、会社の望みともいえます。

 

「成果主義人事」に加え、資格と賃金のさらなる連動のような、統制が進む可能性はあるなど、作今、カイシャ労働はますます要求が厳しくなっていますが、厳しい仕事の上に私生活のすべてを投げ出しても要求にこたえられないような会社施策を、まともに受けても個人の幸福につながるとは限りませんね。

 

カイシャ生活と幸福の方向が一致しているうちは良いのですが、「常に」「皆が」そんな状態にあるわけはありませんから、どこに自分の幸福のポイントを置くのかはその時々に自分で考え、自分で日々の各行動に重み付けをする必要があります。

 

会社は個人の時間配分や行動要領までは考えてくれませんからね。

本来、生活の糧を得ると同時に自身の可能性と自由度を向上させるはずの仕事が、わが身の自由を切り売りして糊口をしのぐ手段に成り下がっている現代の状況に、なんかこのブログで書くテーマを逸脱してしまいました、ははは。  

神速の技、カイシャ流「早飯の術」

拙者は男のくせになぜか飯を食うのが遅い。急げばそれはもう早いのであはありますが、緊急の場合を除いてせっかくの楽しい飯時、わざわざ自分のペースあげることなどまずありません。


飯を食うのが遅いとはいっても、もちろん社会通念的に許容される範囲のことではありますから、むしろ一般的な女性諸君と飯を食うのにはだいたいペースが似通っていて具合が良い面もあります。

が、会社にはやたらに飯を食うのが早い手強いバアさんがおりまして、たまに昼飯が一緒になる。同じ会社にいてわざとらしくこれを避けるのも大人気ありませんので、なし崩しに昼飯をご一緒させていただく事態にいたることもたまに発生します。

このバアさんが手強いのは全く周りのペースに配慮しない、というかなんで周りが私に合わせないのかという態度がロコツなところなのですな、これが。


飯の盆かかえて着席するや否や、猫があそこで寝ていたの、どこそこの店の店員の顔つきが良くないのと、どうでももいいようなことを超大量にしゃべりながら、周りが話題を変えるスキを与えず、それでいてしゃべりながらも「いったい何が起きているのですか?」というような高速ペースで、ズルズル、ガーガー大音を立てて食いまくる。人がやっと半分食った頃にはもう楊枝でシーハーやって冷ややかにこっちを睨み付けているという具合。

会社の昼飯でたまに一緒になるだけとは言っても、これはかないません、同席の光栄に浴した者は、まったく食った気がしないのであります。


それでもあるとき、発言の機会を与えられた私は「デートでは食事がつきものだが、女の子の食事マナーというものは人により千差万別で、同伴者としてはよく目に付く気になるポイントである。」と少々皮肉を言ったのですが、他の連中が私のズケズケ言う物言いに青くなったものの、当のババ様、自分のこととして考えに至らないので全く動じない。(そりゃ、実際あり得ない事でしょうけどね)
もはや周囲は「電光の早飯はババ様の誇るべき得意技」という諦めに至っておりますが。


拙者も武家の末裔を自認する者ではありますが、できれば「早飯早糞武家の習い」だけはご容赦願いたいものです。


うーん、そこで私もなにか誇るべきレベル早技はないかと考えましたが、早いもの、早いもの・・・物忘れは早い、寝付きも早い、それに金をつかうのもこれまた早い。
・・・やっぱり拙者、ひとかどの無芸者でござります。

楽天の呪い サッカー日本代表、メキシコに惜敗

嗚呼、なんと云う事。
対メキシコ・勝 対ブラジル・引分 対ギリシャ・引分 で
予選2位以内確保して決勝ラウンドへ進出の皮算用が
狂ってしまうではないかっ!


実は日本が予選を突破したら、飲酒10日分の
特約が得られる賭けを嫁さんと行なっていたのである。
楽天勝った時にだけ飲むという、アホな約束をしたばかりに
悶々とした日を送る私の起死回生の一撃だったのだ、
それをやつ等は一体、真面目にやっとるのかっ!
アホな約束の詳細はこちら


とにかく、残りの日程、弾丸ツアーで応援に行く余分な体力ももヒマもないので、

ここは神頼みしかない。
なに?おまえは無神教だろうって?
いいんです。苦しいときの神頼みと言う格言の如く、
ヤオヨロズの神は必要なときにおすがりする信仰態度を
是としているのである。


ついでに言うと、近くにあるのは社は水天宮とアーメンのお寺なんだけど、

これも問題ない。
八百万の神々はおおらかで、細かいことは言わず何でも受け入れてくれるし、
キリストだって、八百万に本地垂迹されて受け入れられたからこそ、

日本で商売ができるのである。

(この辺は平均的な日本人の認識ですな)


日本が勝ち抜いたら、そろそろ夏だから参鶏湯(サムゲタン)で

一杯やるのがよいか、
それなら神楽坂にしようか、赤坂にしようかなどと思っているのだ。
大丈夫、日本代表の力を信じたい。


「少年の瞳を持った男」 とか云うものに私はなりたい

通勤の途中で、町中で、信号待ちの歩道の上で、
毎日たくさんの人の顔とすれ違いますが、
気になるのはお父さんたちの「日本のオジサン顔」の多さですね。

一言で言うなら「反応の鈍そうな不機嫌な顔」でしょうか。


口角やほお全体に垂れ気味で、油浮きしているか妙に乾いているか、
そんな加齢による外見的変化だけで説明できるものではなくて、
相手に不機嫌そうな印象を与えるオジサンの顔です。


一説によれば、或る程度の年齢になると体全体の筋力の低下に伴って
不機嫌そうな顔と身のこなしになるそうです。


また、別の説では、世の中の位置付けとしてオジサンは、
明るいやつは軽薄に見られるので、不機嫌そうに振舞った方が
重みがあって偉そうだという錯覚があるからなのだそうです。


つまり中身はどうあれ、もったいぶって不機嫌そうにしていると
なんだが偉そうに見えるので、自分らしく生き生きと立ち振舞い
かつ一目置かれることにエネルギーを使うよりも、楽して最低限のプライドを維持するため、人は不機嫌なオジサンと化していく、というものです。


後者の説に立てば、人は誰しも生まれながらに不機嫌オジサンに育つわけではなく、あるとき、運賃の安い「オジサン行きの車」に乗って行ってしまうというわけですか。


もちろん、この窮屈な世の中、様々な理不尽から身を守るため、不本意ながらもギリギリの選択肢としての「オジサン行き」への乗車だって大いにあるでしょう。


・・私も毎日、オジサン顔の一杯詰まった貨物列車の如き満員電車に乗って
会社に運ばれていきますが、
自分の人生くらいは自分の足で歩いていきたいものだと思うのでありました。


小泉君、自衛隊を民営化したまえ

今日の昼、郵政民営化反対のおばさんデモ隊に会いました。あまりの音響に昼飯が不消化起こしそうでありました。

コイズミ君もなんかを民営化して、JRやNTTの次の利権をひねり出したいところなんでしょうが、それならいっそのこと、自衛隊の民営化なんかどうでしょうね。民間の戦争請負会社は、こないだのイラクで殺された斉藤さんがイギリスの民間武装警備会社に所属していたことで、一躍注目されていますね。

その結果、現代の戦争は民間の軍事会社がなければとても成り立たないことが次々と明らかにされておりますから、

自衛隊の民営化はとっても時流に沿ってトレンディーですね。\(^o^)/

 

自衛隊が民間会社になったら、憲法問題もこれでクリアーですし、めんどくさい情報公開の問題も、民間企業の経営上の秘密ということに成るんですから、扱いも楽です。

問題はせっせと戦争しなければ利益が上がらないということですが、誰かさんのやりたくてたまらなかった海外派兵の口実ができてこれもクリアーですね。

 

え?その後? 後のことなどわしゃしらん。       

きっと民主党が紙芝居でも作るからそっちを見とくれ。

江戸時代までの文化的著述の中心は漢文だったはず

先日、友人A君の、少々理不尽な異動に伴う送別の酒席がありました。

少し以前は、理不尽な人事といえども、本人の面子や立場に配慮した異動の段取りがあったように思えますが、昨今は事務効率優先で露骨な配置も全くおかまいなしでが、聞けばどこの会社も似たような傾向のようです。

それよりもこの異動で、A君はかなり煮詰まってきていた彼女との関係も組立直さなくてはなりません。


 花開けば風雨多く
 人生 別離多し

これ、たしか井伏鱒二の名訳によればこんな具合

 花に嵐の例えもあるぞ、
 サヨナラだけが人生だ

しかし、花後の年輩世代ならともかく、まだそれなりに若い世代にも現代企業の嵐は容赦しませんね。むしろ、年輩者・上層の安定・結託を守るため若年層は競争を強いられているような気もします。


口には出さなくともみんな思っていることは同じか
精一杯盛り上げようとする幹事の意図も空転気味。


話す言葉も少なく、感慨無量で胸一杯のA君をよそに、
飲めども酔えずひたすら食って腹一杯の私。

え?薄情者?


 浮世はすべてが是れ夢、浩歎は吟ずるに如かず


こういうヤツなんです。
別に達観しているわけではありません、
会社・社会の歪みを個人でまともに引き受けていたら身がもちませんからね。


 強酔莫霑襟 

  (強酔して襟をうるおすことなかれ=やけ酒だ、泣くんじゃねえ!)


それにしてもおまえなんで動揺するとエセ漢文調の引用が多くなんの?
だって、純粋国語調じゃ源氏物語みたいな

昼メロにしかなりませんから~、残念!

情死の風景

情死劇は、昔から人気のテーマではありますが、私には極めて難解です。


ひとつは、情死は「自身に対する解決」と言うより、「世間に対する解決の表明」ではないのかという疑念があって、私の中での世間に対する義理立ては優先順位が低いからです。


また、情死劇に共感を抱くのは、誰しも抱える生と死、理想と障害、内省と世間体、義理と道理といった個人的解決の難しい要素に主人公が直面し悩む過程であって、最期に至る「情死という事態」は、その悩みの「象徴」としてだけあるのではありますまいか。


だって物理的にヤル事はすごいモノです。
ここで具体例を並べるのは気が引けますので、記憶から古典文学の場面を引用しますと、

たとえば「心中天の網島」での覚悟の心中の場面。

念仏の果て、治兵衛が小春の喉笛を刺すが、切先がはずれて小春は死ねずに七転八倒、のけぞって暴れる小春を治兵衛は押さえつけて鍔元まで刺し通してえぐり上げる。

断末魔の苦悶の様子も凄惨ながら、人に凶器を突き通すこと、死に至らしめる作業を手に掛けることへの抵抗感と困難さが残酷で強烈です。

ただ、次いでの治兵衛の縊死は、「なり瓢、風に揺らるるごとく」と、すでに物扱いされたような奇妙な静寂と空しさをもって描写されていました。


うーん、近松門左衛門、やっぱりすごいわな。
まず、情死しそうでなかなか情死に至らない、小春と治兵衛の世間や家庭をめぐる心情で観客の共感を誘い、悩む様子をもうたっぷりと堪能させる。最期に壮絶にして直後空虚さの漂うラストを見せて、観客・読み手を思いきり不安定な状態で放り出し、これによって情死へ至る空しい心情のドラマを強調して印象づける、という仕掛けになっているのですね。

 (一回浄瑠璃見たぐらいで生意気言うな>オレ)


つまり観客の望むのは、情死に至る事情や過程とその悩みであって、最期の情死はドラマを完成させる演出の重要な道具以上のものではないでしょう。


でも生身の個人においては悩みはリアルでも実際に情死してしまったら、それこそ「おしまい」です。
私たちは情死した有名人に対して、情死したその一点の事実は観念的なものとして処理して、情死に至る葛藤に対してこそ同情も敬愛もしているようです。

情死は象徴であり、誰も象徴の現実化などにエネルギーを使うべきではない、と臆病な私は思うのでありました。



・・・普段あんまり考えないテーマを考えたら、腹がへりました。
悩み多き私はここで昼飯と昼寝をもって当座の解決となしたいと思います。
本日はいつもとトーンが違ってしまいましたが、これにて失礼。

目には保養も欲しいが、たまには休養を

胃カメラ事件から一ヶ月。なぜかこんどは妙に目が疲れます。
まさか真面目に飲んできた胃薬の副作用なのでしょうか。
目の過度の疲れは、仕事にも遊びにも、気力・気迫に影響します。


そこで私の貴重な読書タイムである会社の行き帰りの電車通勤時間を、泣く泣く目の休息に当てようと考えたのでありました。
それでも本が読めないのはシャクなので、朗読CD文庫の購入を考え、先ず最初に買ったのがこれ、


『永井荷風の断腸亭日乗/新潮社』

断腸亭degi


でも、この2枚組CDを携帯オーディオプレーヤに落として万全。。。。とはいかなかったのです。
荷風の日記は知っての通り文芸作品としても風俗記録としても素晴らしいし、朗読は本を読むのと違う味わいがあって大変感心したのですが、問題は私自身。素直に目を休ませる体勢に入れないんですね、これが。

これまで、耳から音楽、目から文字、手に鉛筆のマルチタスク通勤をしてきたのに、いきなり目から文字図形情報が入ってこないと、これがなんとも手持ち無沙汰なんですね。
素直に休んでろよ、と思うのですが、情報を処理する方の我が頭蓋の中のCPUが耳からの情報だけで納得せず、「オラ、オラ、まだあるだろ、さっさと入力せんかい!」と無体な要求をはじめてソワソワと落ち着かないんですねえ。


要するにこれってただの「貧乏性」ってことですかね。