酒とホラの日々。 -6ページ目

キンモクセイの小さな花が散り去って、秋後半を迎える

秋の散歩
 
9月29日
キンモクセイが咲き始め芳香が漂いだした。緑とオレンジ色のコントラストも美しいがこの時期は息をするだけでも楽しいものだ。
    深呼吸誘う秋空金木犀

10月1日
旺盛な繁茂の止んだ夏草はしだいに活動を終えて地のなかに帰っていく。秋は無常観を誘う。
    祭り終え枯れツタ残る塀の道

10月2日
御嶽山では懸命の救助活動にもかかわらず犠牲者の数ばかりが増えていく。広大な山域では人もヘリコプターもケシ粒のように見える。
    山海神無事ひたすらに祈りたり

10月3日
栗一粒秋三界を蔵しけり、とは寺田寅彦の句だが、今の時期どこを見ても秋が普く充ちている。
    気は澄んで草木山海秋満たす

10月4日
今年のキンモクセイも散ってしまい、樹下はどこも一時オレンジの点描が施されて秋もまた一段と深まっていく。キンモクセイの花期もあっという間だが、一年一年の過ぎることの早いこと。
    にぎやかに散り去る花の秋中央

 
 

秋の夜長、本を読みつつ寝落ちする

秋の夜長


9月23日
日の落ちたあと、窓を開け放って湯船につかる。虫の音と湯気に包まれて、気分はまるて大草原の露天風呂だ。
   草原の只中の湯に入る虫の声

9月24日
台風が近づいている、朝夕の冷え込みもこたえるが湿気が高い、体調もよくない。 おかずの海苔がふにゃふにゃだ。
    朝飯の海苔で知る空 雨近し

9月25日
台風の余波で湿った風が吹く。夏風邪もなかなか抜け切らない。とんだ夏の名残。
    秋雨も洗いきれない夏埃

9月26日
荒れた一日から一転、穏やかな秋晴れを予感させる朝。でもまた次の台風しだいでどたばたがやってくる。人生はこの繰り返し。
    つかの間の晴れ間まぶしき秋の空

9月27日
昨晩、寝床で本を読んでいたら、ページの上に紙魚が、いわゆる本に巣くう虫が現れ、おやおやと思っているうちにいずこへかいなくなった。たぶん落ちて布団の中に逃げ込んだのだろう。やれやれ。
  人とシミ寝床共にす夜長かな
 
 
 

確実に進む秋の中に見え隠れする夏の名残

秋の海


9月13日
ひとけもまばらとなった秋の海岸にやってくると、穏やかに寄せては返す水面に次々と秋の雲が映っては流れていった。寄せた波の引くまでの一瞬、海と空の見せるコラボに見とれてしまった。
   人もなく白雲揺れる秋の浜

9月14日
だいぶ秋も進んできたが日中はまだそれなりに暑く、今頃遅れてやってきた蝉が鳴いている。日暮れは早くあっという間に気温が下がってくるのでは蝉も予想外だろう。ただでさえ限られた時間だというのに。
  夕暮れにブルースにじむ秋の蝉

9月16日
残暑ぶり返す。朝の電車もまだ半袖が大半。でも秋は仕事に私事に忙しいのだ。
  三連休明けて気合いの秋本番

9月17日
朝夕冷えるといってもたいしたことない。まだ20度ある。多くはまだ半袖だがたまに秋っぽい服も見かける。
   秋服もきまりきらない日焼け跡

9月18日
だいぶ涼しく過ごしやすくなったが喉が痛い。秋は風邪引きシーズンの始まりでもある。
   秋涼も風邪引かぬ程を願いたり

 
 
 

進行する秋にまだ夏の入り交じる一週間

夏の終わりの雲

9月8日
だいぶ朝の気温も下がったので、一駅歩いてみたらひどい汗。ちょっと秋めいたからとだまされてはいけない。
   長袖を 放り投げたり 秋浅し

9月○日
どうやら今年は本当に暑さは終息に向かうらしい。近年珍しい早い秋の深まりか。
   暑くなく寒くもない季節よ続けとボケても思う

9月○日
日中はまだそれなりに暑くなるが、朝夕はめっきり涼しくなった。日の出も遅い。
   蝶飛ばず蝉まだ眠る朝の静

9月○日
降れば豪雨の日本列島。次々にかかる雨雲に特別警報。秋雨なんてもんじゃない。
   警報に不安垂れ込む秋曇天

9月○日
昨日までの雨から一転晴天に。だるい金曜日も明日からの三連休と洗い上がった青空に、もう一頑張りという気になる。
   豪雨去り透光前へ秋の空

9月○日
いつまでも暑かった去年とは打って変わって、今年はもう完全に夏終戦、秋モード。日中は半袖で快適なのだが、夏の最後の日はいつだったのだろう。
   半袖に日差しうれしい秋の坂

  

スポーツの秋ではあるけれど・・・

9月、だいぶ秋も進んできたようだが、まだまだ暑さもいったりきたり。
 
晩夏のカモメ2

9月1日
今日から9月。すでに海岸に昨日までの賑わいはなく、夏の忘れ形見のように水クラゲや藻の切れ端が打ち上げられている。
    長月の くらげ寂しき 朝の浜

9月○日
やっと雨が上がり、朝から日が射すのは9日ぶり。残暑が戻ってくるのはかなわないが、まだ朝は清々しい。
   塵一つなき蒼天下深呼吸

9月○日
夜毎に虫の声が高まり、就寝時には草原か森の一軒家にいるような気になる。
    合唱は静寂に似る 秋の虫

9月○日
自慢ではないが、非常に蚊にすかれる体質である。江戸時代なら「蚊除け男」という職業もあったと聞くが、衛生観念の発達した現代ではありえない。
  虫除けも念が入りたりデング熱

9月○日
グレッグ・イーガンのハードSF「順列都市」を読んでいたら、コンピュータ上にコピーされた人格だのプログラムでシュミレートされた宇宙だの、近未来に起こりそうな事象に頭がくらくらする。一説には人間の脳を模倣したコンピュータの能力が人間を凌駕するとされるシンギュラリティ革命は2045年にやってくると予想されている。 頭を切り換え五感ををフル稼働すべく、スポーツの秋とばかりに体を動かしたら運動中に怪我をした。見た目だけ試合後のボクサー状態。怪我は困るが、己の肉体を伴う実在性を再確認。    
 怪我で知るプログラムでなき強そうな俺




この一週間 8月も長い雨降る夏の末

この一週間(日曜日は除く)のまとめ。このところはこんな日々でした。
 
夏雨粒
 
8月25日
今週は連日のように曇り時々雨の予報。夏が去りつつある。季節の終わりというのは人にいろいろとものを考えさせる。
  炎暑やみ 雲下に思う 夏の末

8月26日
秋色の夏服を買った。服なんか買う気もなかったのだけれど。この先もまだまだ暑いとわかっていても、気持ちはどこか秋を迎える用意をしているらしい。
  夏揺らぎ 風立ちはじめる こころ奥

8月27日
急に涼しくなって雨の微粒子舞う気温20度の朝。どうせすぐに残暑がぶり返すとわかっていてもほっと一息。真夏大王だって毎日のお勤めはきつかろう。
  真夏日も 閑を得たるか 朝の雨

8月28日
雨の通勤電車の中は、やわらかなベールで包まれたように外から隔てられ、一時自分の時間が濃くなったようだ。
   通過駅 傘さげて読む 文庫本

8月29日
まとわりつくような雨が降ったり止んだり。季節の変化はいつも、仕事や生活への変化の迷いや期待と共に来る。私たちは変化する世界の中でしか生きられない。
  行き惑う 夏の終わりの まだら雨






サイクリングはブルースだ、 と彼は言った

海が見える道


サイクリングはブルースだと言ったのは確か忌野清志郎だった。
うまい表現だ。

ブルースを聴かない人にはぴんとこないかもしれない。
音楽ジャンルの一つだと知っていても、たまに聞いたことがあっても
そもそもブルースとは何か、実はよく知らない人の方が多いことだろう、
たぶん。

ブルースという音楽については
作家のカート・ヴォネガットはこんなことを言っていた。
 アメリカにまだ奴隷制度のあったころ、
 使用者の白人とそのもとで使われる奴隷たちと
 目立つ死因に顕著な違いがあったというのだ。
 ご主人の白人の方が圧倒的に自殺で亡くなる率が高かったのである。
 
 一見不思議な話だ。
 お金持ちの白人と貧しい奴隷。
 優雅な支配階層と酷使される奴隷。
 自由と不自由。
 人間と人間の所有物。
 奴隷の悲嘆はいかばかりだったことか。

 ただ一つ、奴隷たちは生きる苦しみを
 ブルースに昇華するやり方を知っていたというのだ。
 もちろんブルースは困苦の根本的な解決には成り難い。
 ただひとつ、ブルースは一時死神の誘いを
 どこか隅っこに追いやってくれるらしい。

これはカート・ヴォネガットの著作「国のない男」にあった話だったと思う 
たいていの人は自殺まで考える局面に至ることはないだろうけれど
ちょっと覚えておいてもいい話だ。

忌野清志郎は音楽が仕事で生活そのものだったから
自転車という形で現れたブルースもあったのかもしれない。

これも覚えておくといい。ブルースは何も音楽という形をとってばかり
私たちの周りにあるわけではない。
 

夢の後の夢

晩夏の陽

昨日まで夏のイベントで賑わった街頭は
気むずかしい顔をした人間が急ぎ足で通り過ぎていく。
通勤電車には雑踏が戻って、灰色に人波が
町へとまたあふれ出すようになった。
 
お盆の休み期間が過ぎたら夏ももはや終盤。
一抹の寂しさを抱えながらも
この時期ふと気がつくと、早くなった夕暮れの光に照らされる
赤みを帯びた景色に見とれている。
 
祭り終え 彼方に去りし 夏の夢
 

失っていく夏への想い

夏後半の雲
 
夏も後半、まだまだ暑い日は続くものの
照りつける日差しはだいぶ斜めになってきたし
暮れはじめる時もだいぶ早くなってきた。
この時期はなんだか不安というか
落ち着かない気分がそこはかとなく漂う。
 
別に日が短くなったせいでもないだろうが
たぶん、ひとつには残り少ない夏休みとうんざりする宿題を
比べて眺めた子供の頃の体験が、トラウマとなって
いい大人になった今でもこうして心を苛むのだろう。
 
どうも学校体験は全体として幼い心を傷つけ
その後の長きにわたる人生に負の記憶を
刻んでいたような気がする。
もちろん、学校や教師への恩はあるが怨もまた多大なものだ。

いや、別に私の勉強がどうというわけではない。
これでも余は幼少のみぎり、神童とか生き仏かと言われ、
東京の大学の先生が面会に来たとか
チベットの偉い坊さんがわざわざ訪ねてきたりしたくらいなのだ。
(注 : あまりに昔なので記憶に誤りがあるかもしれない)
 
まあ、教育は大事だが何でも教育で解決できるわけではない。
 
そんな屈折した記憶を抱えながらも、それでも私は夏は大好きだ。
夏の空気、食べ物、まぶしい光・・・。
 
この夏食べたスイカは大小取り混ぜて8個だったが、
スイカにもそろそろスの入ったのが出回るようになってきたし
果物の主力は梨やブドウに移ってきた。 
地上は暑くても見上げる空には秋の雲が混じる。
 
日が暮れれば夜ごと次第に虫の声が大きくなってきて
いつのまにか気付けばすっかり秋の景色の中にいるのも
もうそんなに遠いことではないのだろうなあ。
 



(タイトル「失っていく夏への想い」は、数年前に晩夏の寂しさについて書いた時nonponoさんにいただいたコメントで、晩夏もまたいいものでそれは失っていく想いとか、と云うようなことがあったのをふと思い出したものです)

夏と雨と読書スタイル

夏の雨
 
8月の上旬のあたりはいわば夏の頂にあたる。
立秋とは夏もその頂点に達して秋へと向かう道程が見晴らせる頃、
と云うわけだ。
だから立秋に至ったからと言って暑さは急には治まらないが、
盆休みを過ぎたら後はだらだらと晩夏への下り坂である。

この時期、今年はちょうど台風がやってきた。
わが家の辺りでも久しぶりに雨が降り、乾いた土に湿り気が戻るとともに、
心にもまた潤いが戻って・・・と云うほどの感性は持ち合わせていないが、
まあ庭の水やりをしなくて済んでよかった、と云う程度でも
干天の慈雨には違いない。
 
ジンルイというモノは晴れて気圧が上がると自然にそわそわとして
外に出かけて活動せずにはいられなくなるようで、
私も(よせばいいのに)遮二無二出かけては疲れて帰ってくる
傾向がある。
これは太古食うや食わずで狩猟採集に明け暮れ露命をつないでいた頃の
記憶がしっかりと継承されているためであろう。
まあ私の場合は先祖代々ビンボー症の血が騒ぐだけなのかもしれないが。

一方雨降り低気圧の下では、危険ばかりで狩りも山菜採りも実入りが少なく、
人は家でじっとしてカロリー消費を抑える行動となった、のかもしれないが、
私は雨降りは家でゴロゴロ食ってばかり、完全にカロリー過多の
ダメ人間をやっている。

おきまりのコースは朝の野球観戦(大リーグなので、時差の関係で
野球は朝食後に見るものなのだ)に飽きると、横になって読書。
寝転がって読むくらいのモノだからたいしたものは読まない。
それに、寝転がってから、実はあれが読みたかった、これがよかったと
必ず思うのだけれど、寝そべってしまってからわざわざ起きて雨の中を
本屋に行く気にもなれず、大して気も乗らない本を眺めるだけ
となることが多い。

それでも昨日は突如、中里介山の「大菩薩峠」でも読んでみようかと
思い立った。
あまりに長いのでこれまで何十年も避けていたのだけれど、
ネットの青空文庫で只で読めるという云うことに気づいたので
無料に弱い私は、ついに寝たまま思い立ったのである。

「大菩薩峠」は わざわざ説明するまでもないが、維新前夜を舞台とし
すご腕の剣士、机竜之介を主人公とする長編小説である。
大衆小説の先駆けとも言われ、ドロドロの上にあまりにも長大で
最後は未完のまま作者が亡くなっているというシロモノ。

読み始めてみるとこれがまた、スゴイ。何がまたすごいって、
主人公、机竜之介のワケの分からんハチャメチャぶりというか、
次々現れるキャラの立った登場人物とどこに転がっていくのか分からない
ストリー展開。あっけにとられた私は読書を中断するタイミングをつかめず
ズルズルと大菩薩峠を読み続けているのである。

でもなあ、ノートPCで読んでいるのだけれど、
こうも長いと(全41巻もある)さすがに疲れる。
電子書籍リーダーのキンドルなんぞも持ってはいるが、これは
外出時の荷物に制限があるとき専用。
基本は大きな画面で読みたい。
そこで今は、寝ながらPC読書のために専用の机を買おうかと思案中である。

スーパーごろ寝デスク欲しい

ま、廃人養成デスクとも云われているようなのだけれど、フム。